松ヶ丘小学校の周りの寺院、旧跡、神社、記念碑などの紹介


寺院、神社

称名寺
 京都府西六条真宗西本願寺末寺
 寺伝によれば、宇多天皇ノ末裔佐々木秀義の三男佐々木三郎左兵衛尉盛綱が開いたといわれる。
 盛綱は、承久の乱(1221年)宇治川の合戦で功を挙げた四郎信綱の兄にあたる人物である。
 建仁元年(1201年)頼家の命を受け、越後の国鳥坂城を攻めた後、 国府に島流しになっていた親鸞上人の徳をしたって弟子となった。
 その後、上人が勅免となり、信濃の善光寺詣りをした折に、師命により信濃にとどまり教化することになった。
 承元4年(1207年)腰村(現在の加茂・新諏訪町・往生寺一帯の西長野)に称名寺を開基。
  その後、更級郡長谷村に移り、承久3年(1221年)、小市に寺堂を再建したといわれる。
 寺宝として、親鸞聖人絵像(慶長年間作)・佐々木盛綱所用品・九条関白尚忠筆の額・信玄陣太鼓陣取禁止の文書・香の国図などがある。
 称名寺には、本堂・鐘楼・太子堂・庫裡の建物があるが、このうち本堂のみが弘化の大地震の難をのがれた。
 さて、この本堂は、道場から寺院建築様式へと発展する過渡的なものとして、貴重な存在であるといわれる。
 例えば、内外共書院造りの建築物であること、斗など仏寺建築様式は一切なかったこと、又、内外陣・間仕切・小壁の透し彫り・欄間が本欄間であることなどの特徴があり、こうした作風からみて、おそらく江戸時代のものであろう。
 回廊正面の左右隅の小壁にある欄間は、書院風の菱形組子欄間がある。  柱の面の取り方は比較的大きくとってあり、柱幅に対する面幅の割合では室町時代を思わせるが、柱がふるくなると、どうしても面幅が大きくなる傾向があること、地方では中央(京都・奈良)より若干流行が遅れる傾向がある。
 特に重要なことは、建物全体が書院造りが大成したのは桃山時代であるので、寺伝で云う室町初期の康永三年代までは遡るわけにいかず、古く見積もっても桃山時代まで下げなくてはならない。称名寺本堂は、道場から寺院建築様式へと発展する過渡的なもので、真宗寺院建築の発展上、貴重な存在である。

志奈埜市神社
 「うぶつなさん」「おうぶつなさん」と呼ばれている。鎮守の神としての産土神は、村で生まれた者、住む者はみんな氏子となり、氏神として心のよりどころとされている。昔、村内のあちこちにあった神々(秋葉社、住吉社、飯綱社、金比羅社など)が集められ、合祠されている。古くは諏訪神社といわれていたが、明治以後、志奈埜市神社と社号が変更された。秋の例祭はにぎやか。



史蹟

 小田切氏居館跡について
 小田切氏は、応永七年(1400)の大塔合戦に落合・窪寺氏と共に活躍した。古くから小田切に住んでいた豪族である。
 小田切氏は佐久郡小田切郷の出身であるが、その移住の年次については分らない。
 が、この近辺の豪族の春日(七二会)・布施(布施)・落合(葛山)氏等と同様に滋野姓であり、鎌倉時代地頭職に任ぜられ、その孫がそのまま白地に土着したものと伝えられる。
 小田切氏は、吉窪 要塞堅固な城を築き小市に館を設けた。
 松ヶ丘小学校裏西の北中御堂六三二九−六三三○番地の畑で今もなお屋敷と呼ばれているのがそれにあたる
 東西61m・南北58m・幅7.2m・高さ2mあまりの土塁が東西に続き、西は権現沢の以て、堀切としている。
 東西の壕は土塁をくずし埋め立て、小田切氏は東方に勢力を伸ばし、窪寺を領地化し、安茂理一円を領した。 天文の頃(1532-1554)には犀川を越え、更級郡北部に進出し、今里の内後、於下に館を設けた。
 内後は、六十間四方の館で濠をめぐらし上屋敷とよばれている。於下は 五十間四方で二濠をめぐらした跡があり、下屋敷と呼ばれている。
 尚、小田切氏に関係するものかは不明であるが、昭和五十一年西部水道線工事に際し、松ゲ丘小学校東側より多数の五輪塔が出土している。

道祖神
 小市には、道祖神が上町二つ、下町に一つある。
 元来道祖神は、村の入り口や辻にまつられ、「道六神」とも「塞の神」といわれ、境を守り、悪い神が村に入るのを防いだり、旅人を守る神でもあった。また、子供達がよい若者となると縁結びの神となり、結婚したら夫婦に子供を授ける神であり、厄年(男七才・二十五才・四十才、女七才・十九才・三十三才)の厄落としの神でもあった。
 道祖神の祭りは、地方によって呼び名は違うが、小市ではどんど焼き、またはどんどん焼きとよばれている。
 村の若者と子供達が心棒を立て、松を積み上げ準備をし、日暮れを合図に火がともされた。
 どんど焼きの火で焼いた持ちを食べれば風邪をひかないとか家に持ち帰った火で湯をわかし茶を飲めば一年中病にならぬといわれた。
 どんど焼きが燃え切って心棒を倒す方向も決まって、その年の暦のアキの方に倒す。アキの方は歳徳であり、万事大吉の方角である。
 このようにして倒された心棒は、お日待宿に引いていかれる。お日待宿となる家は、婚礼とか出産などのめでたいことのあった家がそれにあたった。
 お日待宿では、子どもにはみかんや菓子を、若者には酒のさかなを出してもてなした。若者たちは、酔いのまわるほどにこの家がますます栄えるようにと、「枝もさかえて葉もしげる」などと歌ったり踊り振わしたものであったと伝えている。

 庚申講
 小市には、庚申塔は上町の旧道から国道に出る道路脇と、無常院境内との二ヶ所にあるが、庚申講はかなり以前に消滅した。
 元来庚申講は、六十日ごとの庚申の夜からだの中にひそむ三尺の虫がその人の眠っている間にぬけ出し、その罪を天の神に報告し、寿命をちぢめたり、罪を与えたりするから、その夜はねむらずに慎んでいなければいけないという道教節から来たもので、平安初期には天皇・貴族の間に広まった。一般の人々が行なうようになったのは江戸初期ころからだである。  この庚申講は、ムラにおける最初の講として全国に波及し、講仲間を中心にしてムラは結束し、発展していったといわれる。
 小市では、六十日ごとにまわってくる庚申の夜、講仲間は当番の家に集まり、床の間に青面金剛、あるいは冨士浅間の掛軸をかけて夜更けまで茶を飲んで語り明かした。
 また、この夜子供を作ると、手くせの悪い子が出来るといわれ、慎むことにしていた。
 講仲間は親戚のように親しく交わり、不幸のあった時には葬儀の手伝いやら、墓穴ほりの役割を受け持った。

馬頭観音
 馬頭観音は、観世音菩薩の化身で、いろいろの悩みを絶ち切る功徳があるとされているが、愛馬の死に対する供養や、安全な成育を祈願するために造立したものがほとんどである。
 前者は中見堂観音の本尊としてまつられている。後者にあたるものは、かつて県道大町線の難路であった犀沢川と佐平沢の間に八基がまつられている。いずれも造立年代が新しく大正六年から昭和十九年で、造立者は馬方衆である。

供養塔
 「供養」とは、三宝を資養するための行ないのことである。すなわち、一切の仏陀は仏宝と云い、その仏陀の説いた教法を法宝と云い、その教法に従って修業するものが僧宝である。これが、仏・法・僧の三宝である。 この三宝を養うため、花・燈明・飲食・資財をまつり、そして仏前に念仏を供え、経典を供え、廻国順礼という行動を供え無心となり仏と一体になろうというものである。
 小市には、三十三ヶ所巡拝塔・念仏塔・万霊塔などがある。

万霊塔
 万霊塔は、身元の分からない行き倒れや餓死した者、犬、猫などこの世に縁のないものの供養をするものである。

戸隠講
 戸隠講は十軒程の単位で構成されていた。それぞれの講では、くじ引きであたった者がその夏の代参者となり、大々神楽の行なわれる戸隠神社の夏祭りに参詣した。
 小市の社家は中社の成瀬(成就院)・諏訪(智照院)・福岡(浄智院)などであったが、ごく稀に清水(安楽院)があった。
 この社家は毎年暮れになると、おを配って廻りお初穂(金か米)を集めた。社家と講仲間とのつながりは、御師と旦那という師旦関係であり、信仰を媒介にした義兄関係で社家を成瀬兄・福岡兄など札とよんでいた。
 この戸隠講は、江戸時代に作られ始めて明治以降、社家が世襲されたので、講社の結成が社家の盛衰に結び付くようになった。このため講社結成が、一段と活発に行なわれるようになった。
 しかし、現在、小市では講は、全く消滅し、かつての師旦関係は伺うことは出来ない。しかし、戸隠神社のお札だけは、多くの家で祀られている。

地蔵
 地蔵信仰は、奈良時代にわが国へ伝わり、平安後期に末法思想が盛んになるにつれ地蔵救済を信ずる傾きが強くなり、弥陀信仰と結び付いて庶民の間に流布し、鎌倉時代になると石像をたてて祀られている。
 六道(地獄、餓鬼、畜生・修羅・人間・天道)に迷う衆生を救済するという地蔵様。現世利益のほか死後の世界に迷う亡者も、信心を知らない子どもでも導いてくれるという。

中見堂観音
 信濃三十三番札所の内十二番、かつては、中御堂沖にあったものが、元禄年間に無常院境内に移転されたといわれている。多くの方々の信仰を集めていた。