松代町
松代は、貴重な文化財が数多く残る真田十万石の城下町です。復元された松代城(海津城)をはじめ、真田宝物館・文武学校などの真田家にゆかりの文化施設や、往時の町並みなどが残る静かな町です。(長野市ホームページより抜粋)
象山地下壕
太平洋戦争の末期に大本営を長野の松代に移そうとして掘られた地下壕である。現在、補強工事がさなれ部分的にではあるが開放されており、中に入る事ができる。この象山地下壕と少し離れているが、現在、地震観測室になっている舞鶴山の地下壕とがある。
皆神山
昭和40年代のはじめ松代群発地震が起きた。その中心的な場所がこの皆神山である。古代のピラミッドであるなどと一時評判になったこともあった。周りの山の麓に独立してできた山であるので、そんなうわさ話が起きたのかもしれません。
神田川
高遠山を源に千曲川まで流れ下る短い河川である。上流には乙女滝と呼ばれる小さな滝がある。この滝は、江戸時代には、松代の町中からも遠く眺められたとのことであるが、今は全く見えない。河川の所々では、ホタル(ヘイケボタル)が毎年発生している。
長野県立松代高等学校
明治39年松代町立乙種農業学校として設立される。昭和23年学制改革により、長野県松代商業学校及び長野県松代高等女学校を統合し、松代高等学校となる。詳細は松代高等学校のホームページをご覧下さい。
恵愛学園
社会福祉法人八葉会が経営する児童養護施設である。昭和21年、終戦後の混乱した世相の中、戦災孤児並びに生活困窮家庭児童の援助を目的として松代仏教会と更埴仏教会が大蔵省より松代大本営予定地の一部を借り受け「恵まれない児童に愛を」と言う理念から「恵愛学園」と名付け、事業を始めた。昭和22年3月1日、東京都より戦災孤児等22名入所、また昭和23年、長野県児童も入所して定員50名として東京都と長野県の認可を受けた。昭和35年、社会福祉法人八葉会となり、児童福祉法の適用を受ける。開設50年、すでに550名の卒園生が社会に出て、活躍している。
平成29年、千曲市稲荷山に移転した。
長野県警察学校
警察学校、交通機動隊が並んで建てられている。警察音楽隊、カラーガード隊も組織されており、各地で出演演奏をしている。官舎も設置されているため、本校にも多数の警察官の子弟が在籍している。3月末の異動により、毎年転出入児童が10名前後ある。
地震観測室
太平洋戦争最後の拠点として計画推進された大本営跡の一部である。地下壕跡に地震計を設置し中央気象台松代地震観測所を開設した。現在は、気象庁松代地震観測室となっている。天皇御座所として予定された部屋等も現存している。
青垣公園
松代中心市街地より南へ1kmほど離れたところに位置している。体育館、市民プール、多目的広場、テニスコート、運動広場、ゲートボールコート、芝生広場、わんぱく広場、駐車場、トイレ等が完備されている。地域住民の健康運動の推進と福祉の推進を図るため、運動施設を中心に整備されてきた。平成2年度から工事に着手し、平成11年度にほぼ完成した。
象山神社
法泉寺(曹洞宗)
本尊;釈迦牟尼仏。1564年(永禄7年)、清野山城守宗頼の開基、節香徳忠和尚の開山による。【「お猿のかごや」の碑】山上武夫作詞 海沼実作曲。海沼実は、1910年(明治42年)松代町御安に生まれ、その後、上京し昭和8年東洋音楽学校に入学する。同年、児童合唱団「音羽ゆりかご会」をつくる。この曲は、昭和13年に作られたもの。【鈴木右近の墓】真田信之の家臣、信之が万治元年に亡くなると、その後を追いここで切腹(殉死)する。【つつじの名所】白、ピンク、赤、紫とさまざまな色をつける裏庭のつつじは、法泉寺をつつじの名所として有名にしている。法泉寺にまつわる民話「つつじの乙女」は、鈴木右近の殉死とこのつつじをもとにできたもの。
清水寺
坂上田村麻呂が東北遠征の際に建立された古刹である。現在の建物は昭和28年に建立された平安朝様式の鉄筋コンクリート造りである。本尊の千手観音、聖観音、地蔵菩薩、毘沙門天、四天王、薬師如来等の尊像を安置してある。
西楽寺(浄土宗)
由来書によると「1574年西条隼人正尚昭が開基」とあり、また「1394〜1427年の創建にして豊栄村関屋の地に関屋上野守の開基、後に1574年西条隼人正らが帰依し現在地に移り、堂を建立する。」とある。松代藩初代藩主 真田信之の三男隼人正(はやとのしょう)信重の帰依寺信重は1648年埼玉県鴻巣で病死し、同地の勝願寺に葬られたが、生前の関係もあって、同年、西楽寺に霊屋が建立され位牌を安置した。
中村神社
創建の縁起は不明であるが、1569年西条美作守裕直の名のある社殿再建の棟札が現存する。それによると「信州埴科郡英多庄西条大国大明神」と記されている。古くは宮野平に在ったものが、里に降りたと伝えられている。
白鳥神社
寛永元年(1624年)小県郡海野郷から真田信之によって移された。ここには、真田氏の氏神が祀ってある。