大倉城趾
 今から830年ほど前、小笠原長清が信濃国守護(長野県で一番偉い人)に任命されました。小笠原長長清は大倉郷に城を築き、9男の長澄(市郎長隆ともいわれる)を大倉城主として配置し、北信濃方面の守りに当たらせました。後に、長隆は地名の大倉を姓として名乗るようになり、代々大倉の地に居住した伝えられています。
 織田信長の時代、北信濃を領地として与えられた森長可(もりながよし)は、家来を引き連れ北信濃へ侵攻してきました。この時、上杉方であった芋川親正が、民衆と一緒に一揆を起こしました。大倉城を修復して立てこもり、激しく抵抗しましたが敗れ落城しました。この時のことを、信長公記には、「大蔵の古城(大倉城のこと)にて女童千余、切り捨つる」と記されています。
 大倉城は標高461メートル、下の民家(城下)より100メートルの高さであり、一の郭から三の郭まで備え、井戸、土塁、曲輪、空堀(城門跡、入口の見張り台は現在破壊されてない。)、そして、隠し砦を備える非常に堅固なつくりになっています。