寺田 寛蔵(てらだ・かんぞう)
教育者(きょういくしゃ)

寺田 唯順(てらだ・ゆいじゅん)
僧侶(そうりょ)

 寺田三郎兵衛の息子として、江戸時代の中ごろ中俣に生まれました。小さい頃より学問好きでしたが、江戸に出て荻原巖という先生に弟子入りして勉強するなかで、長野県の生んだ偉大な学者佐久間象山先生とも親交がありました。郷里に帰って、当時の学校の役割をしていた寺子屋の師匠(先生)となり、多くの子どもたちを育て、また村人のためにつくしました。
 特に、書道をよく勉強していて字がすばらしく、中俣神社の幟には寛蔵先生の書かれた文字が残されています。寛蔵先生が亡くなった後、先生の死を惜しみその功績をたたえて、教え子たちが中心になり筆塚を建てました。柳原かるたに『寺子屋を しのぶ筆塚 五つ六つ』とよまれていますが、今も中俣の寺田さんの家にはりっぱな筆塚が残されています。
 寛蔵先生の弟に、豊治郎という人がいました。この豊治郎さんは、十一才で江戸浅草の清水寺住職であった仏順に弟子入りします。やがて唯順という法名(お坊さんになったときの名前)をもらい、浅草のお寺で大事な役目の仕事をしていきました。最後には、山形県の大きく有名なお寺である立石寺の住職にまでなりますが、文化四年(一八〇七年)三十四才で亡くなりました。
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