佐藤 喜右衛門(さとう・きうえもん)
用水建設者(ようすいけんせつしゃ)

 中俣に生まれた喜右衛門さんは、用水路が不備で日照りのたびに大変な苦労をしていました。特に明治十九年には、水不足から小島と中俣の深刻な水争いが起こり、何とか水不足を解決しようとポンプを備え付けたりしましたが、ことごとく失敗してしまいました。
 明治二十六年(一八九三年)中俣区長であった喜右衛門さんは、新しい用水路を通すために、専門家に測量をお願いしました。測量の結果は、用水路を新しく直しても用水に多くの水が流れる可能性は無いということでした。それを聞いた村人は、用水の工事に大反対でしたが、喜右衛門さんはもし失敗したら自分の財産を投げ出しても迷惑はかけないと主張しました。これを聞いた上野与一さんや松田忠右衛門さんが協力を申し出て、村人もそれまで言うならと工事をすることになりました。
 布野神社の近くで取り入れ、トンネルのようにして地中に水を通したり今までの川を樋で横切ったりする工夫をして、柳原公民館近くまで水を通す計画でした。その年の七月に工事が完成して、いよいよ水を流してみたところ、予想以上の水が流れ、中俣全部の水田に水を入れても十分余るほどの大成功となりました。その後、昭和九年に犀川からの用水路が完備する四十年以上の間、中俣を中心にこの新用水のおかげで水不足にならずに済んだのです。
 用水完成の後も農業に励んだ喜右衛門さんは、明治四十二年(一九0九年)六十八才でこの世を去りました。
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