清水 対冶(しみず・たいじ)
教育者(きょういくしゃ)
嘉永元年(一八四八年)に小島に生まれた対冶さんは、十才ころより、山寺常山先生はじめ多くの先生の教えを熱心に受けました。そして、明治六年(一八七三年)に柳原にできた最初の学校で柳原小学校の始めである巡回学校の先生となりました。
対冶先生は、それから四十年もの長い間、学校の先生として勤め続けますが、そのほとんどを自分の生まれ育った柳原の小学校の先生をしています。特に明治二十四年から四十年までの十七年間を校長先生として、柳原の子どもたちをりっぱに育てることに全力をつくしています。村の人みんなが対冶先生を深く尊敬し、大人になり村を離れた人も先生を慕っていたという話が残っています。教え子の深沢半冶というひとは、戦争で亡くなる時まで、対冶先生の字の書いてある紙を肌から放さなかったそうです。
また、対治先生は、大人の人たちの教育にも力を入れ、柳原育英会や柳原婦人会などをつくる先頭にたちました。先生をやめてからは、自宅でゆったりと生活していましたが、昭和七年(一九三二年)八十五才で地域の人に惜しまれながら亡くなりました。